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創業55周年 むかし話 その3

 創業者が急逝した後、残された多くの社員から「俺たちも頑張るからできるところまでやろう」という声と、たくさんの取引先から「協力するからがんばって」という言葉に励まされ、「みんながそこまで言ってくれるのなら」と創業者の妻が社長となり継続することになりました。
 
 昭和63年。世の中がざわざわと動き始め、平成元年になりこれまで取引のない地元の有力企業から輸送の依頼が少しずつ来るようになりました。配送の需要が急増してトラックが不足しているようでした。そこで「どんなに忙しくても何とか運ぶことを心掛けどんどん依頼が増えて行きました。
 
 そしてバブル時代。建設ラッシュ。建設業に関わるクレーン作業や重機回送の仕事も増加。毎日、フル稼働状態。そんな中、創業30周年を迎え、初めて海外への社員研修旅行を行いました。

 平成5年頃になると都会から数年遅れてバブル崩壊。世の中の景気が下降していきました。その時に幸運にも会社の近くに100万ボルトの送電線が通ることになり、その鉄塔工事のクレーンと輸送を一手に引き受けることになりました。この時に25t ラフタークレーンと50t ラフタークレーンを増車し、クレーンでお決まりの黄色いカラーから、ブルーとホワイトの大沢カラーにイメージチェンジを図りました。

 バブル崩壊はしたものの、携帯電話関連の輸送業務は増加。その関係の長距離輸送も増え続け、全国津々浦々に製品を届けました。この頃から全国ネットワークの必要性を痛感。タイミングよくローカルネットワークシステムの立ち上げの話しがあり、物流ネットワーク栃木協同組合に参加して全国ネットワークを構築し輸送力が強化されました。

 またこの頃、五十里ダムや川俣ダムの改良工事、三河沢ダムの新設等、鬼怒川水系のダム工事でクレーンやトラックが大活躍。クローラクレーン等も仲間から優先的に貸してもらい、大規模な公共事業に関わることが出来ました。

次回その4へ続く

オールテレーン出動!【https://youtu.be/m3UrMOLD_D8】

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