ニュース

創業55周年 むかし話 その1

 作新学院春夏連覇、美空ひばりと小林旭が結婚。ラーメン50円、大卒の初任給は14000円程度。1962年、長男が経営する修理工場で働いていた三男(創業者)が、三菱ふそうから中古のオート三輪を月賦で購入し独立しました。車両価格は30万円。

 このオート三輪で、砂利、砂、材木を運搬し、主に川から砂利を積んで農家に配って販売。その仕事が軌道に乗って、6t車、8tダンプ、6.5t車を増車し昼間は砂利やブロック、夜は市場の青果物を運んでいました。
 この頃、市場から日光金谷ホテルへ「レモン」を運んでいて、1度も食べたことがない「レモン」をどんなに美味しい果物なのか、いつかは食べたいと思っていたそうです。
 数年後、初めて「レモン」をかじった時に「くさってる~」と叫んだとか……。

 それから3年後、もともと整備士の創業者。自宅の車庫でトラックを直していたら陸運支局から指導があり、正式に認可を得て認証工場となりました。
 その後、荷主も増えて行き、一般区域貨物自動車運送事業の免許を取得して青ナンバーになりました。当時、青ナンバーになるのに大変な苦労をしたので、新しく青ナンバーをつけたい業界の若手にはできる限り支援していました。

 そして創業10年。地元の建設会社からセルフローダーを買わないかという話があって重機回送の仕事がスタート。同じころクレーンを購入。日光杉並木の伐採等で、8t、10t、16tとクレーン車が増えて行きました。またアスファルトの合材輸送でダンプカー、鉄骨輸送等でユニック車も増車。
 「日本列島改造論」の勢いに乗り、栃木県内も建設業が絶好調。ダム、トンネル、橋梁、鉄道、新幹線等、公共事業の建設ラッシュ。クレーン車、ダンプカー、セルフローダーが大活躍。

 創業から15年。近所にアイスクリーム工場が進出。自家用で運んでいた冷凍車3台を買うことになり冷凍車の仕事がスタート。夏場はアイス、冬は肉まんを運びました。
 当時は冷凍機の故障が多く、会社の電源で稼働中の冷凍機が突然止まり、アイスが溶けてしまうこともしばしば。

次回、その2へつづく

トレーラーとクレーンとコンテナ【https://youtu.be/uSMxSpxKQNA】

« »

ページトップへ